竹内淳 オフィシャルサイト
Jun Takeuchi
音楽コラム
音楽の原動力…音楽を動かしている
「プリミティブな力」
音楽を読み解く上でまず必要なこと、それは音楽を原始的(プリミティブ)な段階でとらえるということです。
原始的な段階?
そう、人も生きるために呼吸をし、水を飲み、食べる。多少動きもし、疲れれば休む、眠る。そういう最も原始的な当たり前の事の上に、毎日の生活や文化が成り立っている。音楽も同じです。音楽は単に音で成り立っているのではなく、そこには空間があります。それは、調、音色、高い音低い音などを縦軸、拍子やテンポ、フレーズ、和声、運動性などを横軸にしてしつらえられた、「人工的な」空間です。ただ「人工的」なのではなく、即興演奏でも譜面に書かれたものを演奏するのでも、音楽は作り込まれた「特別な」空間です。なぜ特別かといえば、作り手、弾き手の感動なしには成り立たないから。その感動の根底にあるものを探っていくと、必ずプリミティブなものに突き当たる。
よって、上記の縦軸、横軸として挙げたものも含め、いろいろな要素に感動し、絶えずプリミティブなものを追求していく。これが音楽をするものの、基本的なスタンスです。それがわかったうえで、メヌエットはもっと上品に、といったクラシカルな様式感を積み上げていくべきでしょう。
もちろん、より深い見識では、様式さえもプリミティブなものと言えます。つまり様式は切っても切り離せないもの、という意味で。
ですから、全てのクラシックの音楽家にとって、分析は必須なのです。まずこの音楽の動力となっているものを見つけ、音楽がどのように呼吸しているかを見つけ、どのような色彩的背景があるのかを感じ、結果としてどのようなイメージを抱くかを見極めていく…。そのプロセスには数々の段階がありますが、プリミティブなものから高度なものまで、徐々に積み上げていくことにしましょう。
<その「一音」の動きに、動きの理由を見つけましょう>
<一点豪華主義?ちょっとこだわり作曲法>
ラフマニノフ作曲「パガニーニの主題による狂詩曲第18変奏」…<譜例1>
美しいメロディは、自分が美しいということを充分承知しているので、出る前に、周到に準備を施すことが多い。自分をどう見せれば引き立つかをよく知って行動しているのだ。
作曲家がどういう手順で曲を作るかは、曲によって違うだろう。でもある曲の最も美しい部分を最初に思いついて、それ以外は後付けになるように作られた曲も多いのではないか。
1つにはラフマニノフ「パガニーニの主題による狂詩曲」。これなくしては成り立たないと言って良いほど、第18変奏が中心楽想になっている。だからこの曲全部が、とまでは言わないが少なくとも、第16、17変奏は、第18変奏の美を最良の形で引き立てるためにのみ成り立っていると言っていいと思う。それくらい暗く、地味なのだ。極端なことを言うと…、まずあの第18変奏を最初に思いつき、あとどうしようかとラフマニノフは考えた。ソミファソ/ド…そうかこれを裏返す(メロディを転回する)とドミレド/ソ…ふんふんラドシラ/ミ…。あのパガニーニの主題になるじゃないか、よし、それで変奏曲を書こう、…などと思い立ったことも充分考えられる訳だ。実際は知らないですが…ごめんなさい。
ポピュラーにはそのような一点豪華主義は多いと思う。作曲家がどうしても聞いてほしいただ1つだけのメロディを、まず思いつく。それを多くの場合、サビと呼び、最も目立つところに配置する…そしてそれ以外は、下手すると冒頭からして、敢えて何も印象に残らないようにする…ことだって考えられるのだ。
「キッス」の有名な曲「I Was Made for Lovin' You」のように、サビだけが異常に印象的な曲。どう聴いてもサビを最初に思いついたとしか思えない。…「君の瞳に恋してる」(ボーイズ・タウン・ギャング)、これは典型的なサビ一点豪華主義。「Frankie Goes to Hollywood」の「Relax」という曲はもっと極端だ。メロディらしいメロディがサビ1点に絞られ、他は…?。…実際に作曲家に会って、作曲の意図をお聞きしてみたい気がする。これが悪いとは言わない。本当の聞かせどころが1カ所であるという事。まさに1回つかんだら放さないすごみ。これは楽想の印象度の高さが、そのまま商品価値としての高さにつながっていったということ。
さて、またクラシックに戻ろう。ラフマニノフのあの曲を一点豪華主義で片付けるのはちょっと可哀想だが、あの曲の中で最も言いたかった「第18変奏」が、曲のターニングポイントであることは確かだ。美の山場。それまでの変奏は全てがそこに向かい、それ以降は「18」を超えることなくコーダに突き進む。実は、似たようなことはクラシック曲の現場ではよく起こることなのだ。その例を…。
クラシック曲は概して長い。だから単なる思いつきでは書けない。書く前にどんな曲を作ろうか、とメロディなどの断片を数多くスケッチするのが普通だ。(下書き無しで有名なモーツァルトなど例外はあるけど)。その過程で、どうしようもなく印象的なメロディのフレーズを思いついたら、どうするだろう?そのフレーズがどうしても頭から離れず、書きたい!という内的衝動が、全てそのフレーズ1点に絞られるとしたら…。その1点のフレーズがインスピレーションとしてどうしようもなく強く働き、他の部分は全てそれに向かって付け足していく手法をとることになるのではないか。
先のラフマニノフの例は変奏という大きな部分だったが、もっと小さな1フレーズが「偉大なる」発想の原点である曲もある。例として2つ。
★ <譜例2>チャイコフスキーのピアノトリオ「ある芸術家の思い出」の第1楽章第2主題。そのクライマックス130小節にある「ドレ /ファミ」というホ長調のフレーズ。それまでチャイコフスキーらしさそのままに長々とフレーズを歌い上げてきた、 その到達点が、この130小節のフレーズ1点に集約される見事さ。130小節への巧みな到達法は、130小節への思い入れそのものなのだ。まさにインスピレーション。
★ブラームスのバイオリンソナタ第3番終楽章第2主題。その到達点である104〜107小節<譜例3はその部分>。わずかこの4小節(再現部にもう1度出てくる)が、冒頭主題も含めた全ての到達点として集約されているといって過言ではない。それくらいブラームスは、この4小節を引き立たせるためにのみ他を存在させている、私はそう感じる。
ここで扱った例は、真の聞かせどころを、ただの1点に絞るという極端なものといえる。でもそこに作曲者の神髄を見ることは、その音楽の精神に一気に近づくことになる。作曲者の意図を見抜くなどというと格好良すぎるが、本当の名曲は、誰が聴いてもその意図が明確に伝わるからすごいのだ。だから今回書いたことは、きっと頷いていただけることと思う。
<興をそがれる音楽(ごめんなさい、フランク様)>
クラシック音楽は、作曲家が自分のメッセージを音に託し、人工的に「音で」作り上げた建築物です。ですから多くの曲に、力こぶが入っている。それで「聴くのにも力が入り、なかなか最後まで聴くのが大変」という方もあるでしょう。
今回は、その「力こぶ」ができるほどの頑張りが、却ってあだになっている?と感じている曲についてです。作曲家ご当人に対しては大変失礼な内容なので、告げ口なしですよ。(笑)
意図をむき出し…?
音楽は、作曲家が精緻に組み立てようという意図を『むき出し』にすると、かえって聴く人の興をそぐことがある、というお話。ここでは、全く異なった楽想同士を後から組み合わせることの妙に「わざとらしさ」が感じられ、幻滅を感じてしまうという例を…。
フランク/交響曲「第2楽章」
ちなみに、交響曲の第1楽章と第3楽章(この曲は全3楽章)はすばらしい。非の打ち所がない(ホントはありますが(笑))。今回の問題は中間楽章にある。…2つ出てくる主要テーマ(AとBとしましょう)は美しい、が、それ以外が面白くないので、中途半端な印象を抱く。「面白くない」とは、単調さでもあり、また、私はこんなに音楽の組立てが上手です、というあからさまな吐露に嫌気がさしたことでもある。
テーマA↓
テーマの冒頭を思わせる和音に乗って、3連符の刻みなるものがでてくる。仮にこれをxとしよう。このxが出たときは、おっ何か来るぞ、とワクワクさせるのだが、結局何も起こらずそのまま通り過ぎてゆく。つまりxというテーマ性に乏しい楽想を、ただ提示しただけ。がっかり。ここの和音進行が、テーマA と同じだから変なのだ。伴奏+x があるのみで、肝心のメロディが無い。信じられない虚無感。
実をいえば、がっかりには伏線が在った。このxが提示される前に、49小節から輪郭のぼやけたようなメロディを聴かされていただけに、余計にxの出現に期待をしてしまったのだ。
そもそもこの楽章、冒頭からして面白くない。コーラングレによるテーマ A が出てくる前に、16小節もテーマを暗示する前奏がだらだら続くから。これを時間稼ぎと言うと怒られそうなので、テーマが出てくるまでに心の澱(おり)を取り除くところ、と好意的に受け止めよう。静かな、身に沁む空間であるということか。第1楽章の喧噪から逃れる意味もあろう。
問題は109小節から。
さて、
135小節からこの世のものとは思えない、隔世の感さえある美しいメロディBが在った後、176小節からまた出るのだ、あのxが。その時分かるのだ、xという代物が実は何を意味するかが。xはテーマA の対旋律だったのだ。
200小節から、xがついに満を持してテーマAと一緒に歌われるのだ。これまで行き違いになって、孤独に海を彷徨っていたA君とx君が、やっと巡り合えたのだ。抱きあったときの美しい姿に、誰もがうっとりするか…。
素直に聴けば、つまり作曲者フランクの術中にはまることが出来れば、このAとxの「カップリング」は「見事としか言い様がない」と評されるのだろう。でも、余りに堅牢な建物にしようという意気込みが、むしろ空回りして聞こえ、「形を美しく整えるための意図」がむき出しになった音楽にも聞こえる。そこがいかにもわざとらしく、すんなり心に響かないのは私だけ?
こんなことを書くとフランキストと呼ばれる人たちに怒られるだろうなあ。「君は“x”に、精神を聞くことができないのかね?精神を表しているのだから、主題性など邪魔なんじゃよ」と(当たってるー!)。でも何を隠そう、私もフランキストなのだ。フランク大好き。ピアノ5重奏など「意図だらけ」だけれども、不思議なほど何度でも感動できる。「書く力」がそのまま音楽の力に転換できている、すぐれ物だと思う。
このコーナーで、本当は私がこの曲をどう思っているかは、一番最後に明かされます。どうか最後までお読みください。
さて次は、他の曲での場合を知ることで、視野を拡げてみましょう。
全く異なった楽想同士を後から
「効果的に」組み合わせる、類似曲
(以下は興がそがれることはありません(笑))
実はこのような例は非常に多いのだ。何かの主題が再現するとき、過去に出てきた全く違う要素(普通は別仕立ての主題的要素)とカップリングさせることで、主題自体が新鮮に映る。と同時にその要素と有機的なつながりを持たせることもできるという、一石二鳥の効果がある。
1)ボロディン「ポーロベツ人の踊り」(ダッタン人の踊り=旧名称)
ダッタン人という名で知られてきたが、どうやら間違いらしい。
これは、ボロディンの未完のオペラ「イーゴリ公」の中の曲。譜面は「ポーロヴェツ人の踊りと合唱」の有名な「娘たちの流麗な踊り」
譜例1
譜例1と譜例2は全く違う楽想ですが、メロディの始まりにある共通点がみられます。両方ともメロディが5度上行で始まる、ということ。この曲は全体が接続曲風なのだが、曲がバラバラにならないように、音程の関連づけなど工夫を凝らす。
…そして究極の工夫がこの2つの主題の組み合わせによるもの。
ただ組み合わせているのではない。何がすごいかというと、両主題の元の速度が全く違うことをものともせず、面白く作り上げてしまったこと。譜例1はAndantino、譜例2は何とPresto。
これで曲に統一感をもたらしている。
2)ビゼー「アルルの女第2組曲」終曲「ファランドール」(譜例略)
この曲のどこに、テーマ同士の組み合わせがあるか、探してみよう。
ボロディンと似たタイプの組み合わせをしている曲。
…ちょっと変な解説。ファランドールでのテーマ同士の組み合わせ。ピアノで弾いてみよう。組み合わせるからにはメロディ同士の音がきれいにハマった感じが欲しいのだが…なんと結構ぶつかっていてうまく「組み合わされていない」音が多く、面喰らってしまう。
この曲はビゼーの死後、ギローという人が編曲したものだが、ずっとドローン(バグパイプの低音のような音)が続いてややエキゾチックなスタイルなので、調子が合わない方がむしろ良いのかも。
3)シューマン「ピアノ5重奏曲」第2楽章
ロンド形式(ABACABA)で書かれているが、テーマAは暗く陰鬱。
テーマCで火がついたように暴れまくる。その後暗いテーマA が再現される時に、その直前のC部分のリズムを対旋律として上手く挿入している。
言ってみればこれもテーマ同士の組み合わせだが、このような細かい例まで入れれば、無数にあるといってよい
最後に、フランクの交響曲第2楽章について、フランクが考えたかもしれない結論を。
最初に挙げた第2楽章のAのメロディ。これは確かに第2楽章用に作られたが、常に物寂しい情趣を含むものとしてのみ扱ってきた。そして上記のようなオブリガート”x”に乗せて少し複雑な物言いをしてきた。でもこのメロディで言いたかったもう1つの側面は、実は第3楽章の300小節で初めてメロディをフォルテで歌わせた時だ。最もシンプルに朗々と歌わせる。このシンプルさを表現するには、第2楽章でシンプルにする訳にはいかなかった。
これで納得?(笑)
何とも言えないですね。でも循環形式という言葉が先行するのでなく、フランク自身の内的な必然性がこのような形式を生んだと考えるなら、シンプルであるべきものを第3楽章にのみ置いたことはうなずける。第2楽章でAが完結しては困るのだ。だから”x” のようなものと組み合わせてどこか平坦でない世界を築いた。私はそこに過剰反応した、ともいえる。