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和音のもつイメージとは

和音のもつイメージとは?(その3)

                                         by 竹内淳

前ページの「クイズ」答え

問1)<1.>は3小節間和音を変化させないことで、充分そのトニック和音を聴くものに根付かせ、4小節目で満を持して次のドミナントに行く。4小節目で初めて和音が変わるところに、新鮮な驚きと醍醐味がある。<2.>は2小節目でドミナントを出してしまっているので、4小節目の変化の醍醐味がなくなり、単調になる。

問2)<1.>の4小節目にくる和声リズム(和音が変わるタイミング)の変化は聴く人に「新しい和声リズムの到来」を予感させ、そのあとは8小節目の半終止までゆったりと新たな和声リズム(今度は1小節ごとに和声が変わる)で歌い込む。それ以上の新たな和声的刺激を必要としないほど、4小節目の変化が重いものだということ。<3.>は4小節目で変化をさせなかったもの。それで単調になり、後半の属調での全終止という大きな変化を呼び込んだと言える。つまりこの曲の8小節は、4小節目のドミナントの有無1つで大きな違いが生じたということ。

 注意を要するのは、音階固有の和音進行をイメージ化する場合、「イメージ」としてとらえ易いものととらえにくいものがあることだ。とらえ易いものとは、和音の方向性がはっきりしているもの。例えば全終止や半終止などのVに向かう一連の「動的な」和音進行たち(譜例4-1)。または、あるフレーズが始まったばかりのところに多い、I の和音の安定性に頼り切った「静的な」和音群たち(譜例4-2)。これらの「和音の群れ」をイメージ化するには、動と静という表現が、おおいに助けになるのではないか。「動」や「静」のように、音楽から発せられる「気」を伝えるものは、イメージとしてとらえやすい。それに対してとらえにくいものとは、方向性をもたない、さ迷える和音群。 I に向かう力が弱い和音進行の多く。(I → VI → IV → I  など。 譜例4-3)

和音のもつイメージ譜例4〜6_edited.jpg
和音記号取り出し_edited.jpg

・上記はドッペルドミナントの一種で、​根音を省略したもの。

I の右側にある2は、第2転回形のことで、46の和音とも言います。

I IV の右側にある1は、第1転回形のことで、6の和音とも言います。

 つまり全ての進行を「イメージ」という言葉にはめ込もうとすること自体に無理があるのだ。イメージといえないものであっても、和音が次に一音でも移動したときに、そのわずかな一音に対して「感動」できればそれで良いのだ。例えば VI → IV1(上の譜例5)では、アルトのミがファに移っただけだが、そこに「いつでも」感動してほしいのだ。その感動こそが、音楽家の最低の条件である。

B.  和音の響き自体の持つイメージ

 和音を音楽の中でとらえるとき、もう1つ、視点を変えて考えたほうが良いことがある。機能とは関係なくそれぞれの和音自体に、それぞれ異なったイメージ(「響きの持つイメージ」)があるということだ。

 言い換えれば、ある和音それ自身の「響きのイメージ」をそのまま和音のイメージとするということだ。

 

例1)長3和音を明るく感じたとしたら、その後に弾かれる同主短調の短3和音は(「暗い」というのはステレオタイプ的なので)「陰影をつけられた」と感じることは、実際の曲の中でも数多い。

和音のもつイメージ譜例4〜6_edited.jpg

例2)根音のある「属 7 の第2転回形」と根音省略をした「属 7 の第2転回形」との決定的違い。それは和音の中に完全4度音程が含まれているかいないかの違いだ。含まれていれば響きが「重く」硬く、含まれていないときの響きは、一見不安定だが「軽く」温かい。根音省略形の意義は大きい。作曲家はそれを分かったうえで使い分けをしている。(例略)

 

例3)属七の和音は響きの中に減5度(増4度)を持っているので、その響きを不安定なものにする、よって「不安定」なイメージである、と1言で片づけられる場合が多い。確かにそれは重要なイメージの1つであるが、属和音の機能的な「メッセージ」から感じられるイメージに過ぎない。「不安感を煽る感じ」だけでとらえた気になると、属和音の一面しか見えなくなるし、もったいない。

 属七の和音には、私自身が感じるイメージとして次のようなものがある。ただしこれらの感じ方を、ドビュッシー以降の近代の作曲家のみに当てはめる必要はない。バッハでもベートーヴェン、ショパンでも良いのだ。

・不安定

・力強い

・怖い、恐怖感(不安定さが増幅させるのか?)

・泥臭いまたはドロドロしている

・官能的、セクシー、使い方によってはいやらしい、エッチな

・厚ぼったい

・熱帯雨林のような、暑苦しい

・・・感じ方は人それぞれだろう。これらはほとんどが三全音に起因するイメージだと思う。同じ属七の和音でも、作曲家により使われ方に違いがある分、イメージも無限に拡がるということ。上記のように、1つの和音にある従来からのイメージを一度払拭して、和音の響きから素直にとらえ直すことをすると、聞きなれてきた音楽が、全く新鮮な響きを伴って聞こえだすことに驚くと思う。

このような、機能の考え方を超越して和音自体の響きをとらえることは、ドビュッシーを、そして近代、現代の音楽の和音に対する感じ方を知るに従い培われたものだ。(いずれ詳述)

 

 ドビュッシーの和音に対する感覚は確かに新しいものだが、案外、ベートーヴェンやショパンら、ロマン派以前の作曲家も、和音に対する感じ方は「機能」を超えたところでも感じていたところが大きく存在するのではないか、というのが、私のスタンスである。

            〜〜〜〜〜〜〜

 機能の中でとらえる和音のイメージ、そして響き自体でとらえる和音のイメージ。この2つを表裏一体のものとして感じながら、和音に、そして音楽に接していくようにしたい。

                                                        了(竹内淳)

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